奪い合うと足りないのに分かち合うと余るどころか増える不思議

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例えばお菓子だったら、我先にと奪い合うとあっという間になくなり、少ししか食べてない人、食べれなかった人がでてくる。

逆に分け合って食べると、譲り合いや遠慮のかたまりで最後に少し余る(笑)それだけでは留まらない。普段からそうしているとお返しに差し入れがくる。それをまた皆で分け合う。するとまた新たに分け合った人からから別のものを頂く。太る分かち合いループ(笑)増えてますよね、お菓子も体重も(笑)

喜びも分かち合うと増えますよね。共感する仲間が増え、仲間の喜びも分かち合ってもらえる。その分かち合いの輪がどんどん広がっていく。

今流行りのオンラインサロンなども、仕事や喜び、楽しみ、情報、いろんなものを分かち合う場として機能していますよね。分かち合う人が集まるから当然増える。

では悲しみは?

悲しみなども分かち合うと増えます。何が増えるかと言うと愛が増えます。慈愛が増えます。優しさが増えます。思いやりが増えます。学びが増えます。分かち合える仲間との信頼が増え(深まり)ます。

一方で世界を見ると地球資源の奪い合い、土地の奪い合い、お金の奪い合い。これでは足りなくて当たり前。資源も無くなり、人々の間の信頼も愛も絆もなくなってしまう。もういい加減目覚めなくてはと思います。同じ地球市民として分かち合って生きていく時だと心から思います。大国が自分たちの経済と豊かさばかり追いかける資本主義はもう時代遅れ。

「奪う」ということの本質は「喪失の恐れ」だと思います。失いたくない。損したくない。でも本当は普段から分かち合っていれば恐れなど全く必要ない。無い時はわかちあってもらえばよいのだから。豊かさを分かち合うなら痛みも分かち合うことができる。逆も然りで、痛みを分かち合うからこそ豊かさも分かち合える。

極論を言ってしまうと私達は失うものなんて本来ないんですよ。この地上で所有しているものも死んだら墓場の向こう側には持っていけない。地位も名誉も財産も霊の故郷にはもっていけない。この地上で持っているものは全て地上にいる間だけの間借物。持って帰れるのは経験など魂が身につけたものだけ。魂は物質ではないのでどんな泥棒にも奪えません。じゃあ何を恐れるんでしょうね?

震災時に被災地では人々が少ない物資を分かち合い、助け合い、震災以前より人々の絆が深まった。その経験は被災地の人だけでなく援助に行った人にとどまらず、その姿を見た人にさえにも感動を与えた。その感動は日本だけにとどまらず海外にも広く報道された。ということは世界にその波動が広がったということ。最近世界で災害があるたびに日本の人々の助け合っていた姿、忍耐、団結力が取りざたされ、なぜ自分たちは同じようにできないのかとの議論が巻き起こる。

特に「失う」経験を身をもってしている国や人々は「失う恐れ」を手放すのはなかなかに難しいかと思いますね。でもいつかは手放して分かち合う方法を学ばなければ不毛な奪い合いの連鎖を断つのはのは難しい。

まずは私達一人ひとりが「失う恐れ」を手放し、分かち合いの心を広げていけば人類は集合意識でつながっているので世界を少しづつでも変えられるんじゃないかなと思います。

分かち合いは=分かち愛。 愛を広げたいですね。

 

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和花二胡奏者&ヒーリング整体&アーティスト
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