不幸と思われる出来事は単なる偶発的な不運か罰か

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『原因と結果の法則』いわゆる蒔いた種を刈り取るというのは、宇宙の自然法則として寸分の狂いなく働いているそうです。かと言って、何か悪いことが起きたら全て過去に悪いことをしたせいだというのは短絡的すぎます。

蒔いた種が無かったか我が身を振り返ってみることは大切ですが、全部がそうだと言うのでは心が救われませんよね。

人生で起こることは事前に自分で決めて生まれてきている

まず知っておきたいのは地上に生まれるのは学びのためという大きな大目的があることです。何もわからず、ただ偶然生まれてくるわけではありません。

生まれる国、性別、容姿、能力、どの両親の間に生まれ、障害がある体なのか、どのくらい地上で生きるのか(亡くなる時期)まで、全部自分で決めてきているそうです。生まれながらの環境や身体的条件だけではなく、人生の中で起きる数々の障害も選んで決めて生まれてきています。

ただガチガチに詳細まで決まっているわけではないらしく、ある程度生まれてからの自由意志や行動で変更できることもあるようで、起きる障害の種類や重大さ加減は生き様によって変動するようです。例えば30代で亡くなると決めていても、それが事故なのか病気なのか細かいところまでは決まっていないようです。

ただ、大筋はそこから何を学びたいかによって決めてきます。よって、艱難辛苦、何かしらの事件や病気、問題は誰でも生じます。それが魂の肥やしだからです。

不幸と思われる出来事は不運でも罰でもありません。自分で人生のここそこに事前予約設置したハードルです。

発生するそれらの障壁を一つづつ克服していくことで魂が進化します。人は平和で安全で幸せな人生を望みますが、そういった安穏とした人生では何も学べないことになってしまいます。

魂:じゃあ地上に行って(生まれて)くるね。
神:持っていくものは用意したか?
魂:手ぶらじゃだめ?
神:だめじゃ。いくつか大きな問題をもっていかないと意味がないぞ。
魂:じゃあ、〇〇という病気と、××というトラブルと、△△という障害にします〜
神:よぉ〜し、頑張っておいで〜

こんな感じでしょうか。

目の前の事象そのものには善悪はなく全てニュートラル

一方で、それらの障害、苦労を「苦労」と感じないで生きることは可能です。目の前に起きることは実は全て良いも悪いもなく、『自分がそれをどう受け取るか』次第だからです。

「塞翁が馬」という中国の故事のたとえのように何が幸いとなり何が不幸になるかはわかりません。

同じ程度のケガをしても、ある人は「こんな怪我してなんて不運なんだ」と思うかもしれないし、ある人は「この程度ですんで幸運だった」と思うかもしれない。はたまた別の人は「このおかげで別の大事を避けられてありがたかった」と思うかもしれない。

この場合ケガしたことは幸不幸どちらでもなくニュートラル。自分がどう受け取るか次第です。

何か大事が起きたとき、「ああ、学ばせていただいているなぁ」と思って感謝をもって粛々と対応するのと、「自分は不幸だ、被害者だ。運が悪い。世の中のせいだ。」と思って世と他者を恨んで対応するのでは、これは得られる結果が全く異なります。

できるだけどっしり構えて広い視点、想像力を大いに広げて高い視点から眺められれば、その意義が見え、克服を助ける大きな力となるでしょう。そう努力したいものですね。

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和花二胡奏者&ヒーリング整体&アーティスト
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