不幸は本当に不幸か

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暗雲と光

事故、病気、大切な人との別離、死別、受験の失敗、不和、倒産、失業、災害、戦争。

人が「不幸」と呼ぶものはたくさんある。

でも「不幸」が起きることは果たして本当に不幸だろうか。

常に健康な人はその状態が当たり前であり、そのありがたさに気づき、深く幸せだと実感することは難しい。

人は病気で苦しむから健康のありがたさを知り、死を見るから生のありがたみを感じ、闇を知るから光を知る。一方だけではその喜びがわからず、こうした対比の中で初めてそれを知る。物事の本質は両側面を経験しないとわからない。

では本当の「不幸」とは何なのだろうか。

人は「不幸に負けた時に」不幸になるのだと思う。

 

ではなぜ不幸に負けるのか?

それはその原因を他者と環境のせいにし、自分を被害者にして哀れんだ時に不幸になるのだと思う。

この世界に意味のないことは起きない。どんなことも身に降りかかったからにはそこに意味があり、原因は自分にあると知ることが大切になる。

こう言うと戦争も自分のせいなのか?と批判を受けそうだけど、前世も含めてカルマというものがあり、または生まれる前に今世の課題として設定してきているものがあり、どんな形で現れるにせよそこには因果の法則が働いている。

常に戦禍に見舞われている国で生きている人々もいる。それさえも、私達は生まれる国、性別、どんな両親のもとに生まれるかまで自分で選んで来ているのであり、我が身に降りかかるのならそれは偶然の産物ではない。

よって、どんなことだろうと、そこには意味があるのだと諦念で潔く受け止めることが必要なことがある。

それを自分ごとと受け止めず、他者と環境のせいにした途端、自分を被害者にし、そこから力強く立ち上がる力を自ら断ってしまう。それが不幸に負けた、本当の「不幸」なのだと思う。

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「不幸」に飲み込まれず、希望をいだいて強く生きる姿は逞しく美しいと思う。そこには悲哀を乗り越えた輝きというものがあって、同じ境遇の人にとっての光にも希望にもなる。

渦中では辛くて押しつぶされそうでも、時を置いた後で振り返ってそこにあった意味を知ることもある。その経験が自分の糧に強さの土台になっていることに何年もたってから気づくことがある。

その秘訣は今「不幸」に思えることを被害と考えず、自分軸で考えること。するとそれはいつか魂の「財産」になり得ると知っておこう。

塞翁が馬

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和花二胡奏者&ヒーリング整体&アーティスト
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