「人のために」の功徳を曇らせずに輝かせる方法

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このサイトをお読みの方はボランティア、奉仕、寄付など、何か自分ができることで人や社会のためにと思いのある方、また実際に行動されている方も多いかと思います。

動機やきっかけは人それぞれ事情が異なるでしょうが、これらの「利他」の行為は今の世の中では一番必要なものですし、人々の意識は近年どんどん上がっているので、今後ますますそういう方が増えるでしょう。

愛から発する利他の行為は何にも増して素晴らしいと思いますが、一方で知らぬうちに道を踏み外してしまう可能性もあり、よくよく自分の心をしっかりと見る必要があります。

典型的な例が宗教家に見られます。人々を救うはずが営利に走り、信心を利用してがんじがらめにしてしまう。時におかしな教祖になってとんでもない方向に行ってしまう。

初心の純粋で真っ直ぐな思い、愛念、自愛を曇らせることなく、道を踏み外すことなく、天に徳の貯金を積み続けるためにはどうしたらよいのか。

単純なようで基本。簡単なようでなかなかできない。それは「反省」です。

内省、反省の習慣

長尾先生は折々に自らを省みて謙虚に内省・反省をすることを勧めていらっしゃいました。反省合宿なども開かれていらっしゃいました。

私もよく自問自答してみます。けっこうひっかかります。まだまだ我欲(エゴ)が抜けきらないようです(笑)
どう反省したらよいかわからないという方のためにいくつか箇条書きしてみます。

・良い人、偉い人と思われたいなどの虚栄心はないか。

・名声を欲する我欲はないか。

・為した行為を自慢していないか、増長慢はないか。

・見栄はないか、自らを苦しめていないか。

・自己満足になっていないか。

・恩の押し売りになっていないか。

・相手の領域に踏み込みすぎていないか。

・対価を求めていないか。

最後の二つは少し補足します。

「相手の領域に踏み込みすぎていないか」

問題の状況が相手にとっては今世の人生の課題の一つの場合があります。そこで勝手に(本人の許可や要請なく)手助けしてしまうことは相手の学びの機会を奪うことになってしまいます。

親切の名のもとにお節介をやくことは相手の権利の領域侵犯にもなりかねません。

助けが必要か、どんな方法が最善か、その程度・範囲はといったことに常に状況判断と配慮が必要です。人命救助などの緊急を要する場合を除き、事前に相手の許可・希望を確認すると安心です。

「対価を求めていないか」

対価というのは金銭に限らず、お礼の言葉を求める心・態度も含まれます。

「これだけのことをやってあげたのだからお礼の一言はあるはずだ」「喜んでもらえるはずだ」。これらは立派に対価を求める我欲です。

「お礼の一言も無いなんて」と憤慨するようではなおさらに本末転倒です。時には「余計なお世話だ」とか逆に罵られることだってありえます。

余計な手助けではなく、本当に相手のためになっていることなら、行為に対する反応は何も期待せず、ただ何かお役に立てる機会をいただけたことに満足する。そうありたいですね。

ここに挙げた項目以外にも、内面に自分が見たくないものがあれば、目をそらさずしっかりと見つめられたらよいかと思います。

合わせて読みたい

「施し」についての霊訓

フランスの教育学者・哲学者でスピリティズムの創始者でもあるアラン・カルデックによる『霊の書』にいい訓示が載っていました。
『霊の書』はシルバーバーチの霊訓とともに世界3大霊訓に数えられる、最高級レベルの霊界通信です)

「隣人への寛容と愛」についての章で「施し」についての質問に対する回答が載っていました。

質問「施しをすることはいけないことでしょうか。」

「そんなことはありません。いけないのは施しそのものではなく、施しの仕方です。イエスの説いた慈愛の心を理解した者は、物乞いをするという下卑(げび)た態度に出させないようにして困っている人々に施しをするべきです。

真の慈善の行為は、ただ施しをするというだけでなく、その態度に優しさが無くてはいけません。同じく人のためになることでも、その行為に思いやりの心がこもっていると二重の功徳になります。

反対に恵んでやるといった高慢な態度で施しをしたのでは、飢えている人はなりふり構わず頂くでしょうが、感謝の念は抱かないでしょう。

もう一つ忘れてならないのは、見栄からの施しは神の目から見ると功徳にはならないということです。イエスは“右の手が行ったことを左の手に知らしめてはならない”と言っております。せっかくの慈善行為を高慢と見栄で汚してはいけないという意味です。

施しと善意との違いを知ってください。本当に困っているのは必ずしも道端で物乞いをしている人ではありません。飢えに苦しみながらも、恥を知る人間は物乞いをしません。本当に善意のある人とは、そうした人知れず飢えに耐えている人に施しをし、そしてそのことを口外しない人のことです。」

こんなこと書いて、私もまだまだで、なかなか我欲を抜ききるのは骨が折れますが、簡単すぎる目標よりやりがいあった方が気合入ります。

でも我欲無いほうが正直自分が楽ですからね。ほんと、最近そう思います。我欲あると疲れる。ちゃっちゃと手放したいです。修行僧か(笑)

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和花二胡奏者&ヒーリング整体&アーティスト
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